第一海堡  Fort No.1

↑ 戦後、米軍が撮影した第一海堡:1958(昭和33)年3月5日撮影 WIKIMEDIA COMMONS
 千葉県の富津岬を訪れると、その先の海上に、二つの人工島を見ることができる。それが第一海堡と第二海堡である。海堡は、慣用読みで「かいほ」と言われることがあるが、正しくは「かいほう」と読む。上(かいじょう)に築かれた塁砲台(ほうるいほうだい)、つまり、人工島の要塞という意味である。
 神奈川県よりの海上には第三海堡も築かれたが、1923(大正12)年9月1日の関東大震災によって崩壊し、大部分が海中に沈んでしまった。その後、第三海堡は暗礁と化して海難事故の原因となっていたため、2000(平成12)~2007(平成19)年度に撤去工事が実施されて消滅した。
 さて、なぜ海堡は築かれたのか。それは、現地の地形を見れば容易に理解できるであろう。明治時代、帝都東京への砲撃を防ぐためには、東京湾への敵艦侵入を防がなくてはならなかった。湾口両岸の観音崎(神奈川県)と富津岬(千葉県)に砲台を築けば内湾への侵入を抑止できるが、地形上の制約で砲撃可能な時間が限られるため、敵艦の数が多ければ強行突破されるおそれがあった。できる限り砲撃可能な時間を確保し、かつ大量の大砲でいっきに敵艦を全滅させるにはどうすればよいか。導き出された答えが、3つの海堡の築城であった。設計は、ロシアのクロンシュタット海堡群を参考に行われた。
 第一海堡は、富津岬に近い、水深約5mの海に築かれた。当初は28cm榴弾砲14門に加え、12cmカノン4門、19cmカノン1門などを備えていたが、関東大震災後に大改築が行われ、特に左翼は完全に姿を変えた。震災で被害の大きかった第二海堡から15cmカノン2門入砲塔2基を移設するため、28cm榴弾砲は大幅に数を減らされて4門となった。2基の砲塔は太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦まで現役であったため、進駐軍によって徹底的に破壊された。
 世紀の大工事で完成した第一海堡には、国防史上だけでなく、土木史上でも、はかり知れない価値があるわけだが、残念ながら現時点では上陸禁止のまま放置され、観光資源や歴史教材として有効に活用されていない。また、近年、南側護岸の崩壊が進み、中央部の機関砲座や凸角砲座が崩れ落ちた。このまま何も対策をとらなければ、現存する他の遺構も失われてしまうであろう。まずは、これ以上の崩壊を防ぐ手立てを行政機関にお願いしたい。
↑ 関東大震災直後の第一海堡:1923(大正12)年9月9日撮影 防衛研究所 所蔵
 関東大震災の被害を調べるために撮影されたもので、改築前の第一海堡が記録された貴重な写真である。第一海堡の左翼は震災後の改築によって変貌を遂げている。左翼には、28cm榴弾砲用の砲座(各2砲床)が7つ並んでいたが、震災時には、中央部の砲座を空け、右側6門、左側6門の二つの砲台として運用されていた。当時、据え付けられていた28cm榴弾砲12門は、他の要塞用とは異なる隠顕砲架式であった。また、右翼の砲座には、シュナイダー・カネー式12cm速射カノン4門が据え付けられていた。その他、のちに第一照明所になる位置には、19cmカノン1門も据え付けられていた。
 
つづく(第一海堡の繋船場へ)
 
■地図                                        ▼ クリックで開閉 ▲
 第一海堡は海上に築かれた人工島の要塞であるため、行き来するには船が必要である。かつて、関東大震災による海底の隆起によって、富津岬と地続きとなり徒歩で渡れるようになったこともあった。しかし、昭和40年代に、潮流の変化により砂州が途切れ、再び、船でなければ渡ることができなくなった。さらに現在は、所有者である財務省が、不発弾調査が済んでいないことや崩落の心配を理由として、上陸を禁止している。無断で上陸されないよう注意願いたい。

※まだ上陸が禁止されていなかった1995(平成7)年、大学の卒業論文作成のため、富津市教育委員会に問い合わせたところ、関係者の方々の協力を得て、第一海堡の上陸調査を実施することができた。このサイトで紹介する現地の写真は、その際に撮影したものである。富津市教育委員会をはじめ、関係者の方々のご厚意に感謝申し上げます。
■年表                                        ▼ クリックで開閉 ▲
1880(明治13)年 9月 工兵少佐西田明則の提案により、海堡築城の可能性を探るため、海中に試験堤を構築し調査研究を実施。
1881(明治14)年 8月 1日 第一海堡の起工。水深約5mの海中に捨石して人工の島を築きはじめる。
1887(明治20)年 3月下旬 大阪砲兵工廠で開発中だった28cm榴弾砲の命中精度試験のため、築城中の第一海堡を敵艦に見立てて標的とした。対岸の観音崎(旧)第三砲台より12発射撃した結果、9発が命中し、要塞の主砲として選定されるきっかけとなった。
1890(明治23)年10月 左面に28cm榴弾砲14門、右面に隠顕砲架12cmカノン2門の据付完了。
1890(明治23)年12月20日 第一海堡の竣工。
※左面の長さ:約230m、右面の長さ:約75m、敷地面積:約23,100m² 。
1894(明治27)年 7月24日 臨時東京湾守備隊司令部及び要塞砲兵第一連隊の動員下令。東京湾要塞に戦備下令。
1894(明治27)年 7月25日 日清戦争勃発。(正式な宣戦布告は8月1日)
1894(明治27)年 8月13日 右面に攻城砲架12cmカノン2門据付完了。
1894(明治27)年 9月下旬 右面に19cmカノン1門の据付完了。
■日清戦争時の備砲
 ●19cmカノン1門(のちの第一照明所の位置)
   弾量64kg 初速505m/秒 最大射程8,740m
 ●隠顕砲架12cmカノン2門(右面=のちの第一砲台)
   弾量16.5kg 初速456m/秒 最大射程7,000m
 ●攻城砲架12cmカノン2門(右面=のちの第一砲台)
   弾量16.5kg 初速456m/秒 最大射程7,000m
 ●28cm榴弾砲14門(左面)
   弾量217kg 初速142~314m/秒 最大射程7,800m
1899(明治32)年 3月 28cm榴弾砲2門(左面の第1・2砲床)を昇降砲架式のものと交換。
1901(明治34)年 3月31日 それまでの12cmカノン4門(隠顕砲架2門+攻城砲架2門)と交換に、シュナイダー・カネー式12cm速射カノン4門の据付完了。
1904(明治37)年 1月 5日 陸軍大臣より東京湾要塞射撃準備の内達。
1904(明治37)年1月16日 千代ヶ崎砲台、観音崎第二・三砲台、三軒家砲台、花立堡塁砲台、走水高砲台、猿島砲台、第一海堡、富津元洲堡塁砲台の射撃準備完了。
1904(明治37)年 2月 4日 御前会議でロシアとの国交断絶・開戦が決定。
1904(明治37)年 2月 5日 函館要塞・対馬要塞・佐世保要塞・長崎要塞・澎湖島要塞に動員下令。
東京湾要塞・由良要塞・広島湾要塞・舞鶴要塞・下関要塞・基隆要塞に警急配備下令。
この警急配備では、第一海堡の28cm榴弾砲14門に、将校9名、下士卒311名が配置された。
1904(明治37)年 2月 9日 日露戦争勃発。2月13日までに東京湾要塞砲兵連隊第五中隊が第一海堡の守備に就いた。
■日露戦争時の備砲
 ●19cmカノン1門(のちの第一照明所の位置)
   弾量64kg 初速505m/秒 最大射程8740m
 ●シュナイダー・カネー式12cm速射カノン4門(右面=のちの第一砲台)
   弾量20kg 初速530m/秒 最大射程6,250m
 ●7.5cm速射カノン4門(中央凸角砲座2門、左翼端砲座2門)
 ●機関砲10門(中央凸角砲座前の機関砲座)
 ●28cm榴弾砲14門(左面 ※この内の2門は昇降砲架式)
   弾量217kg 初速142~314m/秒 最大射程7,800m
1904(明治37)年11月18日 28cm榴弾砲6門を撤去し、澎湖島・大連湾・鎮海湾方面へ移設。
1912(明治45)年 3月 左面の28cm榴弾砲の2門ずつ7組の砲座のうち、中央の砲座を空け、右翼砲台6門、左翼砲台6門体制に変更することが決まる。
1914(大正 3)年 3月 左面の右翼砲台第3・4・5・6砲床、左翼砲台1・2・3・4・5・6砲床に昇降砲架28cm榴弾砲の据付が完了し、試験射撃実施。
※左面の右翼砲台第1・2砲床には、1899(明治32)年3月に据付済。
1923(大正12)年 9月 1日 関東大震災により被害。
1924(大正13)年 5月 東京湾要塞復旧建設要領を参謀本部がまとめる。
1924(大正13)年10月 1日 第一海堡建築工事(大改築)が始まる。
1925(大正14)年 4月11日 19cmカノン1門の撤去完了。
第三砲台に昇降砲架28cm榴弾砲4門の据付完了。
1926(大正15)年10月 第二砲台にクルップ式15cmカノン2門入砲塔2基の据付開始。
※この2基の砲塔は、関東大震災で崩壊した第二海堡からの移設。
1928(昭和 3)年 1月 第二砲台にクルップ式15cmカノン2門入砲塔2基の据付完了。
1928(昭和 3)年11月30日 第一海堡建築工事(大改築)が竣工。
■震災による改築後の備砲
 ●シュナイダー・カネー式12cm速射カノン4門(第一砲台)
   弾量20kg 初速530m/秒 最大射程6,250m
 ●クルップ式15cmカノン2門入砲塔2基(第二砲台)
   弾量45kg 初速730m/秒 最大射程9,750m
 ●昇降砲架28cm榴弾砲4門(第三砲台)
   弾量217kg 初速142~314m/秒 最大射程7,800m
1935(昭和10)年頃 第三砲台の昇降砲架28cm榴弾砲4門を撤去。
1940(昭和15)年 第二照明所の探照灯を撤去。
1941(昭和16)年12月 8日 大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦。
1942(昭和17)年 7月 第一砲台のシュナイダー・カネー式12cm速射カノン4門を他に搬出。
1945(昭和20)年 9月 2日 日本が降伏文書に調印。
■終戦時の備砲
 ●クルップ式15cmカノン2門入砲塔2基(第二砲台)
   弾量45kg 初速730m/秒 最大射程9,750m
その後、進駐軍による爆破処理。
※備砲のあった第二砲台の破壊が最も激しい。
2001(平成13)年 財務省千葉財務事務所が「危険!立入禁止」の看板を設置。
現在
立入禁止のまま放置され、近年、南側の護岸の崩壊が進む。
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