汐首崎第二砲台  Battery Shiokubizaki No.2

↑ 地下砲側庫(?)の出入口
 津軽海峡の東口を封鎖して、敵艦の侵入を阻止するため、96式15cmカノン4門が据え付けられた汐首崎第二砲台。戦後の砲台施設の爆破や、植物の繁茂により、砲台の全容を把握することが困難となっている。
 地下砲側庫らしい小型のコンクリート製の施設が露出していた。
← 地下砲側庫(?)の内部
 内部から出入口側を撮影した。土砂で出入口が狭くなっているので、匍匐しないと入れない。内部も大変狭い。
 
↑ 露出した地下砲側庫(?)
← 砲台跡に残る石垣
 
← 石垣の先に続く施設跡
 交通壕のような人工的な地形があり、その先に、破壊されたコンクリート製の施設跡があった。
 
← 破壊された施設跡
 コンクリート片が散らばっていた。
← コンクリート製の地下施設
 草木に覆われている季節には、見つけるのが困難なこの施設。汐首崎第二砲台では最大級の遺構だったと記憶しているが、現在も残っているかは不明。2017年の再調査では確認できなかった。写真は、1993年頃の調査時に撮影したもの。
↑ コンクリート製の地下施設の内部
 本来の出入口と思われる場所は、土砂で完全にふさがれていた。
↑ 爆破されてできたと思われる地下施設の開口部
 天井部分は残っているが、部屋を仕切っていた壁が失われていた。
↑ 地下施設の内部
 上部に、「荒波観光」などの書き込みがあった。この場所に観光で来るとは、現在では予想もつかないが、戦後、戦友会の方々で訪ねられたのかもしれない。
 
← コンクリート製の遺構
 カーブを描いて露出するコンクリートがあった。砲座跡か? 土砂に埋もれていて判別できなかった。
 
■地図                                        ▼ クリックで開閉 ▲
 旧戸井町(現函館市)の日新中学校の裏山(通称「砲台山」)に汐首崎第二砲台の施設跡がいくつか残存している。中学校のすぐ東側にある墓地の裏から山道を登っていくと、標高130m地点あたりで、左側(南側)の尾根に進む分かれ道がある。正確には、「昔は分かれ道があった」というべきか。現在は背丈以上の雑草が繁茂し、所々で倒木が道をふさぎ、道の存在は見た目には分からなくなっていた。1993年頃に探索した際の記憶を頼りに、藪漕ぎを開始した。途中、地蔵がうつぶせに倒れていたり、ヒグマの糞があったり、ハチが追い回してきたりと、ある意味恐怖の道と化していた。GPSがないと方向感覚を失いそうな酷い状況であるから、もはや「道」と呼んではいけないのかもしれない。300mほど進み、砲台跡にたどり着いても、草木のために見通しが悪く、ハチやアブ・蚊などが執拗に調査活動の妨害をしてくるので、砲台の全容を把握するのが難しい状況となっている。
■年表                                        ▼ クリックで開閉 ▲
1936(昭和11)年9月 参謀本部が要塞再整理修正計画要領を策定。
1937(昭和12)年8月 汐首崎第一砲台、第二砲台に兵員や軍需物資を運ぶための鉄道「戸井線」の建設開始。
1937(昭和12)年11月 要塞再整理修正計画要領に基づき、汐首崎第二砲台の建設が決定。
1938(昭和13)年2月2日 汐首崎第二砲台の起工。
1939(昭和14)年10月3日 汐首崎第二砲台に少なくとも96式15cmカノン2門を据え付け後に、汐首崎第一砲台の30cm長榴弾砲4門を撤去して満州へ送ることが決定。
1940(昭和15)年5月31日 汐首崎第二砲台に96式15cmカノン4門の据付完了。
1940(昭和15)年6月 汐首崎第二砲台の竣工。
1940(昭和15)年7月 撤去予定の汐首崎第一砲台の備砲は、南方作戦に使用することを顧慮して、満州送りの中止が決定。
1940(昭和15)年8月 汐首崎第一砲台の備砲の撤去が完了。
1940(昭和15)年9月3日 陸軍築城部本部より津軽要塞司令官へ汐首崎第二砲台の引継ぎ。
1943(昭和18)年
「戸井線」の工事が資材不足等の理由により中止。ほとんど完成に近い状態にありながら未成線と化す。
■更新履歴・外部リンク                ▼ クリックで開閉 ▲
■更新履歴
  2002年12月11日 公開 ⇒ 2018年8月6日 リニューアル
■外部リンク
  函館市史デジタル版 通説編第3巻 第5編 第2章 第3節 津軽要塞の設置 P284-287
 汐首崎第二砲台