網走海岸の防御陣地  Defensive Position in Abashiri Coast

  網走海岸  Abashiri Coast  クリッカブルマップ
 現存するトーチカ消滅したトーチカを示す。(矢印の長さは機関銃の射程)※トーチカ名は便宜上のもの。
 網走市
二ツ岩トーチカ
Futatsuiwa Pillbox
帽子岩トーチカ
Boshiiwa Pillbox
鱒浦トーチカ
Masuura Pillbox
浜藻琴トーチカ
Hamamokoto Pillbox
モヨロ貝塚トーチカ
Moyoro-Shell-Mound Pillbox
台町トーチカ
Daimachi Pillbox
藻琴トーチカ
Mokoto Pillbox
 
 太平洋戦争の戦局が日本にとって不利な状況となり、連合国側による日本への侵攻が考えられるようになると、侵攻される危険性の高い地域に防御陣地を築かなくてはならなくなった。当時の状況としては、アメリカ軍による日本侵攻ルートとして、(1)マリアナ諸島攻略→本土空襲、(2)ルソン島攻略→沖縄上陸→南九州上陸→関東上陸、(3)アリューシャン列島攻略→千島列島上陸→北海道上陸→関東上陸、が考えられた。1943(昭和18)年5月にアメリカ軍がアリューシャン列島のアッツ島奪還作戦を開始すると、(3)のルートが現実味を帯びてきたため、道東に部隊が派遣されるようになり、7月末までに特設警備隊が編成された。とは言っても、特設警備隊は戦力として期待できる規模ではなかったため、11月に改めて警備隊が編成された。

 網走には第31警備隊が配置され、美幌・女満別の海軍航空基地の警備に重点が置かれた。1944(昭和19)年4月には第31警備隊に築城費が交付され、網走などでトーチカや塹壕などの築城工事が始まった。帽子岩トーチカの出入口付近には、「昭和十九年七月 北部五二四一部隊」の文字が刻まれている。北部五二四一部隊とは、第31警備隊の秘匿名であり、この7月はトーチカなどの築城工事が本格化した時期である。トーチカなどを築いた第31警備隊はその後、1945(昭和20)年3月までに、第32警備隊〔根室〕と組み合わせて独立混成第101旅団に改編され、主力は標茶へ移動した。この旅団は5月に勇払平野の防御陣地に転用されたので、歩兵第28連隊〔北見〕の主力が標茶に移動。同連隊第2大隊が東部網走支隊として網走支庁管内東半部の守備を担当することとなり、この状態で終戦を迎えた。

 8月15日の玉音放送以降、9月2日の降伏文書調印までの間に、ソ連軍がすぐ近くの国後島まで侵攻し占領。降伏文書調印後の9月3日から5日にかけては歯舞群島にも侵攻し占領してしまった。当時、ソ連のスターリンが留萌と釧路を結ぶ線の北側(北海道の北半分)をソ連領にしたいと要求し、アメリカのトルーマンが拒否した話は有名であるが、ソ連としては降伏文書調印までの期間に北海道の北半分を占領して既成事実にすることを狙っていた。これを食い止めたのが、占守島や南樺太で徹底抗戦した日本兵の方々であり、また、北海道各地に築かれた防御陣地の存在であった。北海道本島の防御陣地では実際の戦闘には至らなかったが、最後に北海道を日本領として守り抜くことに貢献したことを考えると、先人の苦労は決して無駄ではなかったのである。

 網走海岸では、これまでに7つトーチカと、コンクリート製の掩蔽部1箇所(しおさい公園下:地図)、浜小清水の塹壕陣地(フレトイ展望台の西側:地図)などが見つかっているが、すでに2つのトーチカが失われている。残りの遺構は、後世に残していただけるようお願いしたい。
↑ 1945(昭和20)年5月中旬頃における道東地区の防御陣地と主要部隊の配置
 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面陸軍作戦<2> -千島・樺太・北海道の防衛-』(1971)のP365、挿図三十九を参考に作成。
■年表                                        ▼ クリックで開閉 ▲
1940(昭和15)年12月 北部軍司令部が札幌に設けられ、第7師団等を隷下に編入し、北部軍が編成された。北部軍司令部は、樺太・北海道(千島を含む)・青森県・岩手県・秋田県・山形県の防衛及び隷下部隊の動員・教育等を担任した。
1941(昭和16)年12月8日 日本軍がマレー半島に上陸、ハワイ真珠湾にも奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発した。
1942(昭和17)年6月5日 ミッドウェー海戦で日本軍が大敗し、これ以後戦局は米軍が優勢となった。
1943(昭和18)年2月5日 大本営は、北部軍を改編し北方軍とし、従来の北部軍の任務のほか、アリューシャン作戦を担任させることとした。
1943(昭和18)年5月14日 第7師団に動員下令。(編成完結は5月27日)
1943(昭和18)年5月17日 北方軍は第7師団に、沿岸防御強化のため、それまでほとんど配兵のなかった道東地区へ一部兵力の派遣を命じた。派遣部隊は以下のとおり。
♦網走支隊・・・捜索第7連隊より乗車1小隊、速射砲1分隊
♦釧路支隊・・・歩兵第28連隊補充隊より歩兵1小隊、宗谷要塞重砲兵連隊より重砲兵1小隊
♦根室支隊・・・歩兵第28連隊補充隊より歩兵2小隊、宗谷要塞重砲兵連隊より重砲兵1小隊
1943(昭和18)年5月24日 北海道に戦時警備下令。
1943(昭和18)年5月29日 アッツ島の日本軍守備隊が全滅。(大本営発表で初めて「玉砕」の表現が使われた)
1943(昭和18)年6月25日 軍令陸甲第58号により、特設警備隊の編成が発令された。
 道東方面では、特設警備第315中隊〔興部〕、〃第316中隊〔紋別〕、〃第317中隊〔湧別〕、〃第318中隊〔網走〕、〃第319中隊〔根室〕、〃第320中隊〔釧路〕、〃第321中隊〔襟裳岬〕が編成配置された。(編成完結は7月25日)
 特設警備隊の編成定員は、中隊が126であるが、常置人員は将校、下士官数名程度で、兵員は必要に応じ在郷軍人を防衛召集とした。 装備の主体は小銃で、各銃の弾薬は30発程度しかなく、戦力として期待できるものではなかった。
1943(昭和18)年7月29日 北海守備隊のキスカ島撤退。これにより、アリューシャン列島・千島列島方面から米軍が北海道へ進攻する危険性が増大した。
1943(昭和18)年9月30日 絶対国防圏が設定された。
1943(昭和18)年11月15日 『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』・・・敵上陸部隊を洋上・水際で撃破する戦術。主陣地を海岸線に築くよう手引き。
1943(昭和18)年11月16日 軍令陸甲第107号により、第31警備隊・第32警備隊の編成が発令された。(編成完結は12月7日)

部隊 本部 歩兵中隊 野砲中隊 十加中隊 定員
第30警備隊
〔樺太〕
第30警備司令部 1       46
第30警備大隊 1 2 1   623
第31警備隊
〔網走〕
第31警備司令部 1       46
第31警備大隊 1 2 1   459
第32警備大隊 1 4     694
第32警備隊
〔根室〕
第32警備司令部 1       96
第33警備大隊 1 2 1 1 554
第34警備大隊〔釧路〕 1 2 1   455
第35警備大隊〔標津〕 1 4     694
第30警備工兵隊 1       263

 第31警備隊は、道東北部地区(網走支庁及び浜頓別以南の宗谷支庁)の警備を、第32警備隊は道東南部地区(根室、釧路國、十勝支庁)及び国後島、色丹島、歯舞群島の警備を任じられた。(その後、国後島・色丹島・歯舞群島への1個大隊の配置は中止となった。)
 警備の重点は、第31警備隊が美幌・女満別の海軍航空基地、第32警備隊が根室・釧路であった。
1944(昭和19)年1月 特設警備隊を増設。道東方面では、特設警備第327中隊〔浜頓別〕、〃第302大隊(乙)〔根室〕、〃第331中隊〔霧多布〕が編成された。
1944(昭和19)年2月 北方軍が第5方面軍に改編された。
1944(昭和19)年3月 第5方面軍が第7師団に道東への移駐を命令した。
1944(昭和19)年3月25日 留守第7師団が編成完結し、第7師団より北海道本島の防衛任務を継承した。
1944(昭和19)年3月27日 留守第7師団を第77師団に改編発令。(編成完結は4月18日)
1944(昭和19)年4月初め 第5方面軍が第31警備隊・第32警備隊に築城費を交付し、道東地区の沿岸築城を開始させた。
1944(昭和19)年5月6日 第5方面軍は、第7師団より部隊を派遣し、第31警備隊・第32警備隊による道東の沿岸築城を援助。派遣部隊は以下のとおり。
♦第31警備隊の築城援助・・・歩兵第28連隊、輜重兵第7連隊の1小隊
♦第32警備隊の築城援助・・・歩兵第27連隊(1大隊欠)、輜重兵第7連隊
1944(昭和19)年5月15日 第5方面軍は、道東(網走・根室・釧路・十勝支庁管内)を第7師団の作戦地域とし、第31警備隊と第32警備隊を第7師団長の指揮下に編入した。道西は第77師団の作戦地域とした。
1944(昭和19)年6~7月頃 この頃の敵情判断として、アリューシャンの米軍が、北千島を攻略せずに、直接南千島や北海道本島に侵攻する危険性があるとして、大別して次の2パターンを想定した。

(1)道東または南千島方面に上陸・侵攻してくるパターン
 帝都爆撃の基地設定として、道東では計根別飛行場群が目標とされ、根室または釧路に主上陸を、網走及び十勝地区に一部を上陸させると予測。
→考えられる上陸正面は、(A)根室及び標津海岸、(B)釧路及び大楽毛海岸、(C)十勝海岸、(D)網走海岸の四つがあり、第7師団は、(A)・(B)から計根別へ向かうものを第一に、次いで(C)から帯広に向かうものを重視して、防御陣地の築城を行なった。


(2)勇払海岸に上陸・侵攻してくるパターン
 北海道の死命を制する目的をもって、札幌を目標とすると予測。
(但し、一旦道東を占領したのち、状況により来攻する公算の方が多いと判断)
1944(昭和19)年7月6日 第77師団及び留守第7師団の臨時動員。
1944(昭和19)年7月7日 サイパン島が陥落し、絶対国防圏が崩壊した。これ以降、米軍はマリアナ諸島をB29の基地として整備を進めた。北海道を除く日本本土の大部分がB29による爆撃可能エリアとなってしまった。
1944(昭和19)年7月18日 第5方面軍司令官が兵団長会同を開き、第7師団長・第77師団長・留守第7師団長・第1飛行師団長・樺太兵団長に対し、北海道本島の防備強化の構想を示達し、沿岸築城を命じた。第7師団は道東地区の、第77師団は勇払平野の防御陣地築城を命じられた。
1944(昭和19)年7月26日 第7師団は、第5方面軍の北海道本島防備強化方針に基づき、師団主力をあげて沿岸築城の急速強化に当たる旨、各部隊に命令した。これを機会に各地区に築城費が示達され、コンクリート製トーチカや洞窟陣地の構築が本格化した。
作業担任区分
網走地区  第31警備隊
根室地区  第32警備隊
釧路地区  歩兵第27連隊主力、山砲兵第7連隊第3大隊基幹
十勝地区   歩兵第28連隊、歩兵第26連隊及び山砲兵第7連隊の各一部基幹 
1944(昭和19)年7月29日 第5方面軍が戦車第22連隊〔盛岡〕を動員。秋頃に帯広に進出させた。(軽戦車18輌、中戦車34輌)
1944(昭和19)年8月19日 大本営が『島嶼守備要領』(大陸指第2130号別冊)を示し、水際より後退した位置に主陣地を築くことを可とした。
→主陣地を海岸から適宜後退した地域に選定し、米軍の猛烈な砲爆撃に耐えて長期持久できるよう堅固に編成して、その上陸に際しては海上、水際、海岸等でできる限り多くの損害を与えるとともに、反撃部隊を縦深に配置して弾力性のある防御戦闘により撃滅するという内容。
1944(昭和19)年9月5日 留守第7師団の一部をもって道東地区の築城作業を援助。 
1944(昭和19)年10月 『上陸防御教令(案)』・・・水際防御を捨て、敵上陸部隊を内陸の縦深陣地で撃破する戦術。主陣地を後退配備するよう手引き。
1944(昭和19)年冬期 第7師団が十勝地区に対する作戦指導要領を次のように固めた。
♦水際から大樹付近にわたり数線に及ぶ拠点陣地を堅固に編成し、敵の来攻にあたっては彼我混戦状態を作為し、この間主力を集中して敵軍を撃滅する。
→すでに7月より第5方面軍に命じられた水際陣地を築城中であるが、この要領に基づく陣地の増強・縦深化は、翌年5月に開始。
1945(昭和20)年2月11日 第5方面軍の兵団長会同。
要点の一部
♦独立混成第101旅団(第31警備隊・第32警備隊から編成予定)を第7師団長の指揮下に編入する。第7師団は、同旅団の一部をもって根室を確保させるとともに、旅団主力を標茶におき、標津、根室及び釧路方面に随時出動できる態勢におくものとする。
♦第147師団は第77師団から苫小牧正面の沿岸防御と道西南部地区の防衛を継承する。第77師団は方面軍予備となり、旭川、滝川地区に集結し随時出動しうる態勢にあたるとともに道西北部地区の防衛に任ずる。
1945(昭和20)年2月28日 軍令陸甲第34号により次の発令。
♦道東地区の第31警備隊〔網走〕・第32警備隊〔根室〕を増強合一して独立混成第101旅団を編成する。(3月27日編成完結/人員5,696名)→主力は標茶地区に移動。
♦留守第7師団を基幹として第147師団を編成する。(6月4日頃編成完結/人員17,240名)
♦第33警備大隊〔根室〕を基幹として第8独立警備隊を編成し室蘭の防衛を強化する。(3月27日編成完結/人員1,085名)
♦旭川師管区部隊を編成する。(4月7日編成完結)
1945(昭和20)年3月16日 『国土築城実施要綱』・・・敵上陸部隊を水際陣地で拘束し時間を稼ぎ、その間に後方で待機している機動打撃部隊を送り込み、決戦を挑むことを前提に、築城を手引き。
同日、第7師団が各部隊の警備担任地域を次のように変更。

警備担任地域
 根室支庁  第32警備隊(まもなく独立混成第101旅団に)
 ※根室半島については、同旅団の独立歩兵第459大隊を第7師団直轄の根室地区隊とし担当させた。
 釧路国支庁  歩兵第27連隊
 十勝支庁  歩兵第26連隊
 網走支庁  歩兵第28連隊
1945(昭和20)年3月26日 硫黄島陥落。
1945(昭和20)年4月1日 米軍が沖縄本島へ上陸・侵攻。
1945(昭和20)年4月 この頃の敵情判断として、米軍が北海道本島へ侵攻するパターンを次のように想定。
(1)陸上航空基地を獲得しようと、道東の計根別付近を目標に、3~4個師団を投入してくるものと予測。上陸正面は主として標津、状況により釧路と判断。
(2)北海道の死命を制する札幌を占領しようと、勇払平野を上陸地点に選定し、5~8個師団を投入してくるものと予測。
(3)津軽海峡の突破並びに米作戦軍艦艇の泊地確保を目的として、内浦湾岸の森付近を上陸地点に選定し、1~2個師団を投入して津軽要塞を背後から攻略してくるものと予測。併せて若干の部隊を長万部付近に上陸させ、札幌及び小樽方向から来る日本軍の増援を阻止してくるものと予測。
(4)宗谷海峡の突破を目的として、宗谷岬東方の猿払付近及び樺太南端の西能登呂岬付近を上陸地点に選定し、2~3個師団を投入してくるものと予測。
1945(昭和20)年5月1日 第147師団に転用発令。(第147師団は千葉県茂原で終戦を迎えた)
1945(昭和20)年5月7日 独立混成第101旅団〔標茶〕を苫小牧方面(勇払平野)に転用発令。
その後、歩兵第28連隊〔北見〕の主力が標茶に移動。同連隊第2大隊が東部網走支隊として網走支庁管内東半部の守備を担当。
根室地区隊は、独立歩兵第460大隊が担当することに変更。
1945(昭和20)年5月13日 第7師団は、『昭和20年度第7師団築城計画』を示達し、既設陣地の増強ならびに十勝海岸から大樹、忠類にわたる地域及び武佐岳山麓における築城実施を命令した。 十勝海岸から大樹にかけての陣地の縦深化は歩兵第26連隊が担任した。
1945(昭和20)年5月14日 米軍の進攻を南九州及び関東と推測し、第77師団の南九州転用発令。(第77師団は鹿児島県加治木で終戦を迎えた) この頃米軍は「Operation Downfall (ダウンフォール〔滅亡〕作戦)」---11月1日に南九州へ上陸・進攻する「Operation Olympic (オリンピック作戦)」と、翌年3月1日に関東地方へ上陸・進攻する「Operation Coronet (コロネット作戦)」からなる---を予定していたので、日本軍の推測は正しかった。
1945(昭和20)年6月23日 沖縄本島陥落。
1945(昭和20)年6月26日 米軍の潜水艦が網走沖に浮上。
1945(昭和20)年6月30日 第5方面軍が『防御作戦準備要綱』を完成。・・・北海道本島での上陸軍に対する決戦の地を、東部では計根別平地、西部では苫小牧平地(勇払平野)と想定。
♦計根別平地方面では、第7師団が主力をもって計根別西北方地区及び釧路地区を確保、一部をもって標津付近の汀線陣地を保持することとした。
♦苫小牧方面では、独立混成第101旅団及び軍管区教育隊の主力をもって苫小牧北側高地より早来にわたる間を確保、一部をもって苫小牧付近汀線陣地を保持することとした。
♦それぞれの方面に敵の上陸があった場合は、約4週間で他の部隊が集中し、決戦を挑むこととした。
1945(昭和20)年7月14日 北海道空襲。(~7月15日)
1945(昭和20)年8月6日 米軍が広島に原子爆弾を投下。
1945(昭和20)年8月9日 ソ連が対日参戦。米軍が長崎に原子爆弾を投下。
1945(昭和20)年8月15日 玉音放送。
1945(昭和20)年9月2日
日本が降伏文書に調印し終戦。
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■更新履歴
  2007年9月14日 公開 ⇒ 2018年8月16日 リニューアル
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  網走歴史の会
帽子岩トーチカ